『わたしを離さないで』。 |
一面の霧、深い森、
見渡すかぎりの荒れた草原、
すりガラス越しに見える、ぼんやりとした風景…。
この本の読後は、そんな場所にただひとり置き去りにされたような、
やるせなく、切ない気持ち。
自他共に認める優秀な「介護人」キャシー・Hの語る、自らの過去。
それは、ある全寮制施設「ヘールシャム」での暮らしでした。
詩や絵画などの芸術に力を入れた授業、
保護官と呼ばれる教師たちの奇妙な言動、
毎週の健康診断、
外の世界を知らない、そこで暮らす子どもたち。
やがて、ある年齢に達した彼らは、
ヘールシャムを出て、「コテージ」と呼ばれる場所に移され、
そして、おのおのの意思のもと、「介護人」として巣立っていくのです。
一見普通に語られる、友情や愛情。
こまごまとした思春期特有の思い出。
ほのぼのとしたあたたかさを感じるはずが、
けれども、どこか歪み、ずれて、
居心地の悪さを覚えます。
「もしや」という思いは、やがてじわじわと大きくなり、
ぞっとするような、「やはり」という確信に変わっていくのです。
この小説はある意味で、SFやミステリーの部類に属するかもしれません。
というよりも、どこかに本当に存在するパラレルワールドの物語。
そう思えるほど緻密な細部の描写が、
より一層、リアリティを持って全体の情景を浮き立たせています。
だからこそ、これほど心が震える小説になっているのでしょう。
終始淡々とした、静かなキャシーの語り口も、
その要因の一端を担っています。
ミステリーのような種明かしは、ほんのわずかしかありません。
あくまでも読者の想像の世界に任されています。
読後2日経った今も、
まだ霧の中を彷徨っているような、
ずいぶん遠くに連れて行かれてしまったような、
そんな感覚がまとわりついています。
でもそういうところも、小説を読む大きな楽しみのひとつ。
核となるカセットテープが全体を物語る、
秀逸な表紙です。
(カズオ・イシグロ 早川書房)