無人島に持っていく1冊。 |
と言いつつも、実は考えてあって(笑)、
それは「国語辞典」。
それも三省堂の「新明解国語辞典」でなくちゃイヤだ。
だって読物としてすごくおもしろいんだから。
これを1冊持って行けば、たぶん退屈しないと思う。
ずっと以前、赤瀬川原平さんの『新解さんの謎』を読んで、
あまりのおもしろさに買ってしまった新明解。
言葉の意味を調べようとぱらっと開くと、
ついそのページの別の言葉の意味も見てしまい、
ついでに例文を読んでしまう。
赤瀬川原平さんは、尾辻克彦という名で小説を書いたり、
路上観察で無用の長物(トマソン)を探したりしているかと思えば、
近ごろめきめきと「老人力」もついてきたという、奇特な人である。
そして、私はこの人のおかげで(せいで?)「新解さん」に出会ってしまった。
「新解さん」とは、新明解国語辞典のこと。
赤瀬川さんは、この辞典の中に、何らかの「人の気配」を感じているので、こう呼んでいる。
国語辞典なんてみんな同じ、と思っていたが、この本を読んで「ん?」
読み進むうちに「んん??」
読み終わり、しばらく考えて(辞書類はお値段が張るので)、
中学時代から愛用していた岩波の国語辞典に別れを告げ(物持ちがいいので)、
新解さんの胸に飛び込んだのだった。
昔から、国語辞典というものが好きだった。
中学生の頃、ぱらぱらとランダムに開いたページの、
きれいな言葉、外来語、古語などをノートに抜き書きして、一人悦にいっていた。
国語辞典はすてきな言葉の宝庫だった。
新解さんは、ちょっと違う。
なにかとても「おかしい」のだ。
だって例文がすごい。
特に副詞関係がすごい。
どんなにすごいか、ちょっと書いてみることにする。
・たっぷり(副)
「お金はないが夜を徹して文学論をやる時間だけはたっぷりある/きょうも、終日、誰もいない市街にはただ明る過ぎる日射しがもったいないほどたっぷり降り注いでいるきりでした/好い声だ。たっぷりと余裕のある声ではないが、…シンミリとした何とも言えぬ旨味のある声だ。」
ふーん、文学好きで声がいいのだ。
「いるきりでした」「…」の部分に、例文を超えたものを感じるんだけど。
・たびたび
「そういえば私は、これまでたびたびの海外旅行に税関でソワソワしたこともなければ、オドオドしたこともない」
旅行好きで、なおかつ男らしく堂々としている人らしい。
・たまたま(副)
「車が馬場町付近にさしかかった時、この近くに八木氏の居宅があることをわたくしはたまたま口に出した」
八木氏って誰だ?
・とどのつまり(副)
「頑固もいいが、立て通す積りでいるうちに、自分の勉強に障ったり、毎日の業務に煩を及ぼしたり、とどのつまりが骨折り損の草臥儲(クタビレモウケ)だからね」
「草臥儲」なんて難しい漢字を使うとは、博識な人だ。
・われながら(副)
「『穴ぐらで悪かったわね、おかあさん』われながら子供じみているとは思ったのだけれども、子供じみていても揚げ足をとってわめきたいような場合であった」
え、穴ぐら…?
そして、お気に入りの例文(て言うのも変だけど)第1位は、
・たまゆら(副)
「春がきたら治るだろうと信じているからうれしい。治らなかったらどうするのか、そこまでは考えていない。考えないことによって女はたまゆらの平和を得ている。」
この格調の高さ、まるで文豪のようだ。
普通、例文は、その言葉を使う場合に分かりやすいように作るものではないかしら。
新解さんは違う。
どこか文学を感じさせるものがある。
(最初、何かの作品からの引用かと思ったくらいだ。)
なぜこんな、へんてこな例文を、それも長々と載せるのか。
分からない。
分からないけど、面白い。
もっともっと、へんてこな例文を探してみたい。
以来、すっかり新解さんのとりこである。
で、春から中学生の娘に買い与えたのも、やっぱり新明解。
自信を持って渡したものの…ちょっと心配かも。